草月流

草月流

 

草月流とはいけばなの流派です。
三大流派の一つで、1927年に初代家元勅使河原蒼風によって創流されました。
従来の形式的ないけばなに疑問を持ち、個性を尊重し自由な表現を求め創始しました。
草月流のいけばなは型にとらわれることなく、自由に個性を持っていけます。
いつでも、どこでも、だれにでも、どのような素材を使ってもいけられます。

 

草月流の歴史

 

初代 勅使河原蒼風

勅使河原蒼風は、「花のピカソ」とよばれました。(1955年パリ個展の盛況で、フランスのフィガロ誌・アメリカのタイム誌などでそう賞賛されました)
戦後の「前衛いけばな運動」を中川幸雄らと共に主導し、空前のいけばなブームを巻き起こしました。

勅使河原蒼風は華道家·勅使河原久次の長男として生まれました。
幼少の頃からいけばなを学び卓越した才能を発揮しますが、やがて型通りにいけるいけばなに疑問を持ち、父である、日本生花学会会長 勅使河原久次(初代・勅使河原和風)から離れて1927年5月に草月流を創流します。
1928年、銀座千疋屋で第一回草月流展を開催します。
軽快でモダンな花が評判となり、NHKラジオのいけばな講座を担当するようになります。
これが発展の契機となり、放送や以後の草月展を通じて草月流 いけばなが広く知られる様になりました。
戦争のため一時活動中止しますが、1945年「勅使河原蒼風・小原豊雲二人展」を開催し活動再開します。

勅使河原蒼風はいけばなにモダンアートの実験精神を取り入れて、戦後復興期の1951年には「散歩」・「機関車」など鉄からなる花器と植物を組み合わせた作品を制作。その後1953年「抽象と幻想」展に、花を用いない鉄製の立体作品「群れ」を制作し鉄や石、木などの素材を花と等価に扱うことで形骸化した型からいけばなを開放しました。
また、50年代〜70年代にかけては1952年のニューヨーク個展をはじめ、欧米各国で展覧会・デモンストレーションを精力的に行い、いけばなを世界的文化に高めました。
1952年の初渡米、1955年の初渡欧を経て1955年に松の根の有機的な形を活かした木彫作品「木獣」を発表します。以降、作品に使用する素材は樹根や樹塊などの木に移行し、1958年に伊勢神宮参宮博覧会のシンボルタワーとして制作した、高さ30mの「摩天」、古事記を引用した60年代の代表作1962年制作の「八雲」、1963年制作の「ちから」など、植物の強靭な生命力を宿す大規模な作品を次々と展開しました。

既存の華道の世界では重要な型を否定し、自由ないけばなを提唱したために異端視されましたが、その一方いけばなに近代造形性与えた勅使河原蒼風の作品は美術史家や美術作家に注目され50年代初めから国内外の美術館でのグループ展に参加、個展を開催していました。
1957年に初来日し、三田教場を訪れたアンフォルメルの理論的推進者ミシェル・タピエは、勅使河原蒼風の作品を絶賛し世界に紹介した事により国際的な評価が高まりました。
1959年にはバルセロナで開催された個展に感激したサルバドール・ダリが勅使河原蒼風を自宅に招き、流木のオブジェを制作している。

フランス政府により1960年に芸術文化勲章オフィシエ、1961年にはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。1962年には第十二回芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。

その後も、いけばなにとどまらず、彫刻・絵画・書と幅広く活動し1979年9月死去。

「いけばなは生きている彫刻である」と提言する勅使河原蒼風は日本のいけばなを世界に発信した第一人者といえます。
1979年、78歳で死去。

 

二代目 勅使河原霞

勅使河原霞は1932年、勅使河原蒼風の長女として生まれました。
中学時代から父・勅使河原蒼風より本格的にいけばなを学び、1951年に
個展を開催。1953年には、銀座に霞教室を開き、本格的に活動を始める。草月流のアイドル的存在となりました。
1955年からは勅使河原蒼風とともに海外各地で展覧会やデモンストレーションを行います。
国内では「霞グループ」を結成します。
オブジェ・絵画・彫刻・装幀・インテリア等、多方面で活躍。
またその美貌を活かしてNHKのいけばな講座等テレビ番組にも多数出演しています。
「ミニアチュール」という極小のいけばなや、枯れもの、着色素材を駆使した軽快で豪華な作品で独自の作風を確立します。
1979年9月父の初代家元・勅使河原蒼風死去したあと、10月第二代目家元を 襲名。
1980年、47歳で死去。
著書に「草月の四季」など。

 

三代目 勅使河原宏

勅使河原宏は、1927年に草月流の創始者 勅使河原蒼風の長男として生まれました。
幼い頃から父 勅使河原蒼風のいけばな表現のモダニズムに触れ後の幅広い創造活動に影響を受けました。
1944年に東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学、後に洋画科に転科。転科後、岡本太郎の紹介により安部公房と知り合います。
1950年に岡本太郎、安部公房らと前衛芸術グループ「世紀」に参加。1951年同科卒業。
卒業後、飲料会社の図案部に就職。草月会の季刊誌「草月」が創刊されると同時に編集長に就任。
1953年、友人から映画「北斎」の企画を持ち込まれ、1955年「北斎」を監督し映画界に進出します。
映画監督亀井文雄の下で助監督を経て、木下圭介に師事します。
1955年に「12人の写真家」、1956年に「蒼風とオブジェ いけばな」を監督します。
1957年に松本善三、羽仁進、草壁久四郎、荻昌弘ら同世代の映画人と「シネマ57」を結成します。1958年集団実験映画「東京1958」を制作します。
1959年には、父・勅使河原蒼風の渡米に同行し「ホゼー・トレス」を発表しました。

また、同じ1958年に東京・赤坂に草月会館が会館し、1959年に勅使河原宏を中心に草月アートセンターが開設されました。
草月アートセンターは現代音楽・ジャズ、演劇・舞踏、実験映画・アニメなど、ジャンルを超えた実験的芸術の拠点として、1960年代の前衛芸術の象徴となりました。
また、草月アートセンターは社会と芸術のとの関係性を問い続けた勅使河原宏の総合芸術の実験の場でありました。
日本アバンギャルド運動の発信基地として、土方巽の「暗黒舞踏」、寺山修司の「天井桟敷」の公演などが行われました。
1962年に行われたジョン・ケージのイベントの際には「ジョン・ケージ・ショック」と言われたほどの反響でした。
1963年にはバウハウス展が開かれています。
また草月アートセンターの機関紙「SACジャーナル」も日本の戦後前衛芸術に大きな影響を与えました。

映画監督として、1962年に安部公房脚本のテレビドラマ「落とし穴」を監督します。この映画はATG初の日本映画となり、第15回カンヌ国際映画祭の批評家週間部門に出品されました。
1964年に勅使河原プロを設立。同1964年に再び安部公房と組み、砂の穴に閉じ込められた女と男を通じて人間の本質を描いた「砂の女」を制作します。この「砂の女」は、国内外で絶賛されました。
国内で、第15回ブルーリボン賞、第19回毎日映画コンクールの作品賞・監督賞を受賞。第38回キネマ旬報ベストテン第1位を獲得。
国外では、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭銀賞を受賞。アカデミー賞では、監督賞と外国映画賞にノミネートされました。
その後も安部公房と組んだ1966年の「他人の顔」1968年の「燃え尽きた地図」は国際的に高く評価されています。
また1968年にはアカデミー賞の審査員を日本人として初めて努めています。
1970年に日本万国博覧会に参加し、「1日240時間」を制作。
1972年に「サマー・ソルジャー」を制作後、映画を離れ福井県宮崎村の草月工房で越前焼の作陶に打ち込みます。

その後、1979年に初代家元 父・勅使河原蒼風、1980年に二代目家元 勅使河原霞が死去し、同1980年に第三代草月流家元に就任します。
竹の伸びやかな性質を使い、幾何的な構成で豪胆な表現を開始し、初代家元勅使河原蒼風の教えを踏まえ、新たな時代のいけばなの方向性を示し、国内外で高い評価を得ました。
国外では、1989年韓国・ソウルの国立現代美術館、1995年イタリア・ミラノのパラッツオ・レアーレ、1996年アメリカ・ニューヨークのケネディセンター、国内では、1994年丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、1997年広島市現代美術館等で竹を使った個展を開催しました。
また舞台美術の制作にも取り組み、1992年フランス・リヨン、1996年スイス・ジュネーヴでのオペラ「トゥーランドット」、1994年アヴィニヨン芸術際での創作能「スサノオ」、1999年チャンドラ・レーカ舞踏団の「スローカ」、同1999年創作舞踊野外劇「すさのお異伝」等を手がけmました。
1990年代からは、複数人で行ういけばな「連花」を提唱し、従来のいけばなの枠を超えた芸術としていけばなの可能性を大きく広げました。
1989年映画「利休」を監督。この作品ではセットのいけばなも制作し安土桃山時代の豪華絢爛な日本の美を表現しました。この作品は、モントリオール世界映画祭最優秀芸術貢献賞、ベルリン映画祭フォーラム連盟賞、第7回ゴールデングロス賞優秀銀賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。同1989年にフランス芸術文化勲章受賞。
1992年映画「豪姫」を監督。同1992年に紫綬褒章を受賞。
1993年フランス・パリのユネスコ本部ピアッツア広場で開催された日本文化祭「パリ大茶会」をプロデュースしました。
1997年勲三等瑞宝章受賞しました。
その他、1991年竣工の石川県山中温泉の「あやとり橋」のデザインを担当。
また、陶芸、書においても才能を発揮しジャンルにとらわれない創作活動を展開しました。
2001年、74歳で死去。

 

四代目 勅使河原茜

他分野のアーティストと積極的にコラボレーションするとともに、「茜ジュニアクラス」を主宰し子供たちに指導し、またいけばなパフォーマンス「いけばなLIVE」を国内外各地で開催しています。

勅使河原茜は1960年、勅使河原宏の次女として生まれました。
1988年静岡三菱自動車ショールームのインスタレーション。
1989年に子供にいけばなを指導する「茜ジュニアクラス」を開校。
1990年兵庫県・つかしんホールで「勅使河原宏・茜展」を開催しました。
1995年東京都池袋・メトロポリタンプラザで個展「おもい」開催。
1995年作品集「花のプリズム」を出版しました。
1997年エルパーク仙台で「勅使河原茜展 つつむ」開催。
1998年福岡 イムズホールで「勅使河原茜展 つむぐ」開催。
2000年東京・表参道で「草月・花Avenue」をプロデュースしました。
2001年、第三代家元勅使河原宏死去にともない4月に第四代家元継承。5月財団法人草月会理事長に就任。
2002年4月勅使河原宏追悼「百人連花」をプロデュース。同2002年10月に東大寺で「大仏開眼1250年慶讃大法要」で献花。
同2002年東京・オーチャードホールで「花と能の宴」、「能とバレエの宴」の舞台美術を担当します。
2003年「薬師寺大講堂落慶法要」で献花。
2004年「四国こんぴら花舞台」舞台制作、金毘羅宮に献花。
2006年日立製作所デジタルハイビジョンテレビWoooのCM「紅い花」を制作します。
2007年日本橋髙島屋において、家元継承後初の古典となる「勅使河原茜展 私の花」を開催します。同2007年両国国技館にて、創流80周年記念「創流祭」を開催します。同2007年日本いけばな芸術協会副会長に就任。
2008年に大阪・松下IMPホール、盛岡・盛岡市民文化ホールにて「家元いけばなLIVE」を開催します。同2008年洞爺湖サミット会場の花いけ、首脳夫人へのデモンストレーションを行います。
2009年 天皇陛下御在位20周年記念式典 舞台花を制作。同2009年鹿児島・鹿児島市宝山ホール、北海道・サッポロファクトリーホール、名古屋・プルニエホールにて「家元いけばな LIVE」を開催。
2010年広島・アステールプラザにて「家元いけばなLIVE」を開催します。
2011年家元継承10周年記念で個展「KOKOROのかたち-勅使河原茜の花」開催(スパイラルガーデン)。同2011年「いけばなー出会いと心をかたちにする」を出版しました。
2012年「薬師寺大講堂落慶法要」で献花。
2014年女子美術大学客員教授に就任。同2014年高崎・群馬音楽センターにて「家元いけばなLIVE」を開催します。
2016年日本橋三井ホールにて「FLOWERS BY NAKED」NAKED Ink.とコラボレーション。
同2016年日本ベルギー国交樹立150周年記念「ゲント・フローラリア」に招待され作品制作及びデモンストレーション。同2016年「薬師寺大講堂落慶法要」で献花。
2017年東京・草月会館にて草月創流90周年記念 勅使河原茜個展「HANA SO」開催。同2017年勅使河原茜作品集 「AKANE TESHIGAHARA」出版。同2017年舞浜アンフィシアターにて創流90周年記念「創流祭」開催。
同2017年「FLOWERS BY NAKED」NAKED Ink.とコラボレーション。
2018年NHK Eテレ「スイッチインタビュー 達人達」出演。同2018年「FLOWERS BY NAKED」NAKED Ink.とコラボレーション。
2019年フランス・パリにて「ジャポニズム2018 : 響きあう魂」に参加。同2019年「FLOWERS BY NAKED」NAKED Ink.とコラボレーション。

 

草月アートセンター

1958年9月に勅使河原宏をディレクターとして旧草月会館において設立されました。
60年代を通して国内の前衛芸術・文化の中心的存在でした。
画期的だったのはアーティスト自身が自分の作品をプロデュースするシステムで、このシステムが商業主義から創作活動を守る上で重要でした。
主要シリーズ・イベントはジャズの「草月ミュージック・イン」、現代音楽の「草月コンテンポラリー・シリーズ」、劇映画、実験映画、アニメーションの「草月シネマテーク」を中心に、演劇、ハプニング等極めて広範囲にわたるイベントを開催しました。
また舞台上の創作活動だけでなくポスターや機関紙「SAC」を制作しました。
1960年「SAC」の創刊号で「『総合化』という現代芸術全てのジャンルに共通した課題がはっきりとう打ち出されている」(安部公房)とあるように一つのジャンルを取り上げるだけでなく、その分解および他ジャンルの結合を模索したイベントが数多く開催されていました。
代表的なところでは、1962年10・11月の「ジョン・ケージ、デービッド・テュードア演奏会」。草月ホールではオノ・ヨーコ、一柳慧、高橋悠治などとコラボレーションもおこなわれ、「ジョン・ケージショック」とよばれる反響を巻き起こしました。
1964年11月には「マーク・カニングハム・ダンス・カンパニー来日公演」、同1964年ジーン・アードマン・グループによるミュージカルプレイ「6人を乗せた馬車」開催などがある。
1971年に草月アートセンターは解散しました。

※主な関連人物
ジョン・ケージ(John Miton Cage Jr.)
デービッド・テュードア(David Tudor)
マース・カニングハム(Mercier Philip Cunningham)
一柳慧
勅使河原宏
和田誠
横尾忠則
武満徹
赤瀬川原平
池辺晋一郎
高橋悠治

 

草月会館

草月会館は東京・赤坂にあります。草月流の総本部です。建築家 丹下健三が設計しました。1958年6月に初代の建物(旧草月会館)が竣工されました。1977年に現在の建物の再建されました。
世界的芸術家 イサム・ノグチによる石庭があり、地下には草月ホールがあります。
カーテンウォールには赤坂御所と青山通りの緑が映し込まれています。

 

現在の草月流

現在草月流は、いけ手の自由な思いを花に託して、活発な活動が展開されています。