いけばなの歴史

いけばなの歴史

 

いけばなの起源

自然に咲く花を愛でることは、古代より洋の東西を問わず普遍的に行われてきました。
古代から日本では、様々な自然に神が宿るというアミニズムの流れとして鑑賞するだけではなく、
茎を切っても水につけるなどの適切な処置を行えばある程度生きるという植物の特性に神秘性・霊性を感じて依代(よりしろ)としてみなされたとされています。
古い樹木を御神木としたり、緑を絶やさない常緑樹等を神の依代として信仰していました。

四季折々の花が咲く日本で人々は昔から草花を愛でていました。
「万葉集」や「古今和歌集」などでは花を詠んだ歌が数多くあります。

いけばなの起源は、6世紀の飛鳥時代に仏教伝来に伴い仏に花を供える
供花がルーツであるという説が有力です。

 

いけばなの成立

いけばなは床の間の飾りとして誕生しました。
現代のいけばなが成立したのは室町時代(15世紀頃)と言われています。
室町時代は茶道、能、書院造り等いわゆる日本の文化芸能が成立した時代です。
これまでは貴族が文化の担い手でしたが平安時代の終わりとともに武士がぶんかのにないてとなっていきました。
建物の主流が寝殿造りから書院造りと変わり、中国大陸から中国絵画と「唐物」と呼ばれる器が入ってきます。
これらを飾る場所が必要となります。
中国絵画の多くが軸物であったためにこれをかけて鑑賞するため床の間が生まれました。
書院造りの始まりです。
書院造りとは床の間の原型の押し板、違い棚などがある建築様式で、日本の木造住宅の原型となりました。
この書院造りの邸宅や寺院に飾りとして花が用いられるようになります。
床の間に絵画(掛軸)や器などと一緒に飾られるようになります。
床飾りの形式が整備されるようになったのは、足利義政の時代からです。
座敷飾りの形式を定め(式目)、多く半僧半俗の同朋衆(阿弥衆)を座敷飾りの担当にしました。
床の間の押し板の場所を決め掛軸の前に香炉、燭台、花瓶の三具足(みつぐそく)を配置すようになります。

床の間に花を飾るという事ははなを決まった方向から見ることになります。
見る方向を前提としたいけばなが誕生した文化的背景となります。
それに、草木にも命が宿るという思想と先程述べた、仏前荘厳の飾り方式の香炉、燭台、花瓶の三具足(みつぐそく)を加えて、花飾りにも真(本木)と下草から作られる「たてはな」と呼ばれる手法が生まれました。
これがいけばなの誕生です。

同朋衆は足利義政の側近衆で、かれらは阿弥(あみ)を名乗り、能阿弥、芸阿弥、相阿弥、飾りつけの立阿弥等がいました。
立阿弥は足利義政の命で花を立てていますが、座敷飾りの形式が整うと文阿弥という花を立てることを専門とする者も現れます。
「たてはな」後の立花様式の前身となる花型が生まれます。

 

立花の誕生

僧侶は供花を通じて花に親しみ修練する機会も多いため「たてはな」に優れた者が現れました。
そのなかでも京都六角堂頂法寺の僧侶から優れたものが現れました。
六角堂にはその建立のきっかけとなった池があり、そのほとりに建てられたことからその僧侶の住坊が池坊と呼ばれていました。
なかでも池坊専慶はその技が巧みで、武士に招かれ武家で挿した花が京都で評判を集めることとなります。
池坊専慶の挿した花は仏前供花などの従来の概念を超えるもので、ここに日本独自の文化であるいけばなは本格的な成立を迎えます。
池坊専慶はいけばなの流派、池坊の開祖をなしています。
池坊専慶は花を挿すのみではなく、思想をも含めたいけばな理論を確立しました。
この型はいけばなの形成に大きな影響を与えました。
そして口伝書の相伝が始まります。
「花王以来の花伝書」は現存する最古の花伝書と言われています。
池坊専慶より続く池坊専慶より少し後のいけばなの姿が示されています。
器や花の構成、種類等が描かれていていけばなの発展の過程を知ることができます。

応仁の乱(1467~1477)以後、足利幕府滅亡により同朋衆の花が影を薄くしたが、それに対して頂法寺は参詣が絶えず、庶民に親しまれ池坊の花は同朋衆の一派も吸収し、16世紀中ごろにはいけばなは池坊の独占することとなりました。
池坊では池坊専慶以降もいけばなの名手が次々と現れ代々工夫を重ね発展していきます。
貴族社会にも進出し宮中で花を立てるまでに至ります。
16世紀前半、宮中や寺院で花を立てて「花之上手」と称された池坊専応は、池坊専慶から続き積み重ねたいけばなの理論は「池坊専応口伝」と呼ばれる花伝書にまとめられ相伝されます。
「池坊専応口伝」はその序文にいけばなの哲理が述べられ、いけばなは花の美を賞するだけでなく、自然本来の姿を現し、宇宙の理を示すものだという形而上的意義を付しました。
これは、従来のように美しい花を飾るだけでなく、草木の風興をわきまえ時には枯れた枝をも用いて自然本来の姿を表現すると主張されてます。
この考えは以後のいけばなの発展の方向性に大きな影響を与えました。
「池坊専応口伝」は立て花と下草の具体的な姿も解説されていますが、より複雑な花型への関心も示されています。
池坊専応の跡を継いだ池坊専栄は七つの役枝によって構成される花型図を残しています。
これは後に「立花」と呼ばれます。
池坊の花は武家や朝廷にもよく用いられ、ちいを確立しました。

 

立花の大成

豊臣秀吉の天下統一後、城や武家屋敷等が次第に大きくなりました。
それにともない床の間も大きくなったので、飾られる花もそれに見合う大きなものに発展していきました。
池坊専好(初代)が前田利家の邸宅に立てた「大砂物」は「池坊一代の出来物」と称賛されます。
砂物とは、器に砂を敷き詰めることから、その名となりました。
さらに、京都の大雲院で行われた花会に池坊専好(初代)の弟子100人が花をいけ、多くの人が見物に訪れました。
この当時(桃山時代)のいけばなは、草花の種類も多く、枝の配置も技巧的で、色彩も豊かで豪華なものでした。
こうした桃山時代の豪華な花は、江戸時代に入ると町人階級にも及ぶようになり多くの弟子を生み出していきます。いけばなのすそ野が大きく広がっていきました。
その中心的な役割をはたすのが初代専好のなを継ぐ池坊専好(二代目)です。
武家からの花の依頼は江戸時代になってからも続きました。
池坊専好(二代目)は江戸の武家屋敷で立花を立てます。
京都でも立花を好む後水尾天皇は宮中の紫宸殿で数回の立花の会を催し、才あるものは無位無冠の者でも出品を許され盛会を極めました。こうした宮中立花の指導、批評にあたったのが二代目池坊専好でした。
立花は池坊専好(二代目)によって大きく発展しました。
池坊専好(二代目)は、立花を単なる座敷飾りの花とせず、一つ一つが独立した芸術作品として鑑賞に堪える花の世界を構成しました。
池坊専好(二代目)が宮中の立花会で立てた「二株砂之物」はあまりに素晴らしかったので、後水尾天皇から見に来るように招請があったほどで当時評判の作品でした。東京国立博物館蔵の「立花図屏風」に描かれています。
池坊専好(二代目)によって大成された立花は、上方を中心に栄えた元禄文化にも影響を与えます。
近松門左衛門の浄瑠璃には立花用語が数多く登場し、町人の間にも立花が流行していたことを知ることができます。
池坊立花は最盛期を迎えました。
またこのころ木版印刷の発達により、立花の伝書や図版などいけばなの書物が多く出版されました。
「六角堂池坊並門弟立花砂之物図」、「立花時勢粧」などです。なかでも立花を理論的にわかりやすく解説した「古今立花大全」はその代表的存在です。
これらの書物によって多くの人がいけばなにふれるようになり、町人のたしなみとして広がっていきます。
元禄五年には奈良の東大寺の大仏開眼供養において池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水が高さ9メートルの立花を制作、それが評判になり遠くは琉球からも入門者がでるなど門弟は全国に広がっていき、会頭を筆頭とする門弟組織の構築も始まっていきます。

隆盛を極めた池坊立花。専好の跡を受けた門人のなかに傑出した人々も現れました。
しかし、専好の立花に傾倒するあまり七つの役枝が固定し、定型化していきました。
基本花型の規定は、一般の普及に役立ちましたが、手間のかかる立花の大衆性には限界がありました。
創成期や発展期の創造性を失い、花材の手配やいけ方が繁雑であったこと、そして元禄時代の頃に町人たちの生活華美を戒めるために出された書院造り禁止令により立花を飾る場所を失ったことから人々は次第に茶花の流れを汲む手軽で簡素な「なげいれ花」へと移っていきました。

 

茶花の影響

安土桃山時代には千利休によって茶の湯が大成されます。
草庵茶室のわび茶では、簡素な茶席の花を生み、書院造りの豪華な床の間の花としての立花と対極的に発展していきました。
茶席の花は「なげいれ」のことで「たてる」に対して「いける」という言葉が用いられ「たてる」が形式を重んじるのに対し、「いける」は形式にとらわれない自然のままに行けた花の事を言いました。
「なげいれ」と言うのは、投げるようにいれるのではなく、曲がって入れても構わないという自由性の意味で、草木花の自然のままを一瓶に生かす意味で「いけはな」とも言われました。
千利休は茶の湯の心得(利休七則)の中で、「花は野にあるように」と説きました。
花は自然の風情のままに器に入れるのがよいという事です。
茶室のいけばなは座敷に合わせて軽々と自由にいけることが強調され、目立たない美しさを発揮することが望まれました。

 

抛入花

こうした茶室の花すなわち「なげいれ花」は茶の湯の発展に伴い普及していきます。
そして元禄時代(17世紀後半)にかけて書院造りが、より小さな数寄屋建築様式へと変化していく中で、座敷の空間が小さくなり小間の床にかざるにふさわしい花として、形式化した立花に変わって自由な花が求められると、茶の湯の「なげいれ花」(茶花)が茶の湯から離れて自立して「抛入花」として広く町人たちに広まりました。
型を定めたハレの日(男性がしつらえる)の花ではなく、小さく手軽に日常に取り入れやすい花として女性の間でも好まれたと考えられています。
華やかな花を「立てる」「立花」だけでなく、軽やかな花を「生ける」「抛げ入れ」が広まりました。
その後、抛入花も床の間に飾られるようになり、形式化が始まります。
抛入花の簡素な自由性と取り込みながらも、立花のような形式美のいけばなとすべく、格調高く整えられ「生花」が誕生しました。
いけばなは人々の居住空間に影響を受けながら発展していきました。

 

生花の誕生

生花は立花を省略した形式をとりつつ、抛入花の自由な表現を工夫がなされた数寄屋造りの床の花として、都市町人達が新しい文化の担い手としての発展に伴い大いに広まりました。
「生花」以前には流派はなかったのですが、いけばな人口が増大し様々な生花流派が誕生しました。
これらの流派の創始者は家元を名乗り、家元制度をとって発展していきました。
多くの生花流派が生まれ、広く一般にひろがりを見せたので池坊も「生花」を認め採用しますが、あくまでも立花から派生した小作品であるとして「生花(しょうか)」と呼び他流と区別しました。
また「生花」はおおくの流派を生んだことから流儀花とも呼ばれました。
「生花」成立以前のいけばなは公家や武家、富裕な町人の間でたしなまれた芸道であり庶民のものではありませんでした。
しかし「生花」の成立によりいけばなは習いやすくなり、市井の人々に浸透していきました。
こうして家元制度をとって発展した「生花」の諸流派は朱子学的な儒教理念を基盤とし自然主義的な世界観による三才格思想に基づき、理論的な内容の意味づけを背景に花型の成立をみました。いけばなを人倫の道を明らかにするものだと唱えて「花道」と称しました。この考えは幕府の政策にとって非常に好ましかったので、信託を得たように普及しました。また、門徒を女性や子供に開き、三従の教えを説く女芸の一つとして喧伝することによって、女性のお稽古事の筆頭に挙げられるようになりより発展しました。
しかし「生花」は花型の制定によって定型化を招き、創造性に欠けるようになり、本来持つ自由さが失われていき、幕末の退廃的気分とともに、次第に精彩さを失っていきました。

形式化した「生花」の一方で、かつての抛入花の流れは、文人や数寄者の間で流派や形式にとらわれぬ趣味の花として「文人花(文人生)」が楽しまれ、自由な表現で無技巧の内にも変化を求め、気品あるいけばなを生みました。
この文人花は、煎茶の普及とともに文房風流を好む文人達の間で流行しました。中国詩文の教養を根拠にし、詩文から絵画等の文芸に親しむ一環として文人花を、花材の取り合わせの妙を重視し、自由かつ詩的に生けました。しかし、当初の文人たちの自由な精神も、その後、花材に仮託された中国詩文、画題、故事が文人花のとなって、次第に類型されていきました。

 

いけばなの近代化

明治維新とともに、欧米文化を取り入れる風潮が高まり、それまでの伝統的な文化や芸事を軽視する傾向が強まっていきました。いけばなはしばらくの間旧弊(古い習慣・制度)として批判される対象となってしまいます。またいけばな界も「異国の草花」としてもてはやされた西洋花を花材に用いず、旧来の伝統を墨守し魅力を失い、廃仏毀釈による寺社系の流派の衰退が拍車をかけました。 政治体制の変化は富の移転を伴い、いけばなにとって支持者や庇護者を失って著しく衰退しました。
ただ江戸時代中期から潜在的な力を持っていた文人花は明治の高官達に支援されていました。
しかし、明治中期になるとナショナリズムが台頭し復古機運が高まり、日本の伝統文化を再評価する動きがでてきます。
政府はいけばなを良妻賢母のたしなみとして茶の湯、裁縫と共に教育科目に入れます。
女性必修のたしなみごととして普及を遂げました。
その結果としてそれまで男性中心であったいけばなが、女性に開かれました。
もとは僧侶や武士が広めたいけばなが、女性の習い事に変わっていきました。
同時にいけばなも、旧来の伝統墨守ではなく洋花を取り入れた自由ないけばなとして、「盛り花」「投げ入れ」が生まれました。
盛花は明治中期、小原雲心は盆栽、盆景の水盤からヒントを得て、水盤上の花器を使って写実的に情景的に「盛花」を創始しました。その名は、花を盛るように生けることからきています。
また当時いけばなの流派が使わなかった西洋花を用いての色彩本位のいけばなの道を開いて小原流を創始しました。
この盛花は当時普及しつつあった洋風住宅に対応したいけばなとして新鮮な印象をあたえ、生花に変わる新しい時代のいけばな様式となりました。
「盛花」は近代いけばなの起点とされています。それは技巧化し 自然感を喪失したいけばなの形式主義の批判から始まり、草木の出生と自由な創作を特色とした。砂の物など自然景観を写すといういけばなの原点を新しい目で再現化したことによります。
同時に、「盛花」は花を見上げるのではなく並行または見下げて見ることになります。
これは花を「立てる」から「盛る」といういけかたに変わり鑑賞のしてんが変化しました。
また神の依代という観念が喪失されたとも言えます。
「盛花」は花型の規格を定め、教授法を合理化して習いやすくしたので、近代的で手軽にできる室内装飾のいけばなとして、大正時代の女性に迎えられました。
盛花・投げ入れはいけばなの大衆化に大きな役割をはたします。その一方家庭趣味の域を出ないうらみがありました。

 

盛花のアンチテーゼ

盛花は初めは花型を持たないいけばなでした。しかし次第に型を定めることになっていきました。
それに対するアンチテーゼとして大正から昭和にかけて自由花運が起きました。
この背景には知識人の中で自由な作風を持った文人生の影響がありました。自由花は当時美術界に起こったアバンギャルド運動の影響を受けて美術評論家の重森美玲が「新興いけばな宣言」が出されるなど、洗練された文化意識のもとに挿花芸術を唱導するもの、あるいは近代芸術理念からいけばなを造形芸術としてとらえなおそうとしましたが、軍国主義が台頭し、戦局の激化により、花材調達の困難さ、いけばなを習う女性の激減、師範の出兵等に押し流され、いけばなの変革をもたらすには至らず戦後に持ち越されました。

 

現代いけばな

戦後、伝統的な芸術に対する批判が起こり、いけばなも新しいいけばなの創造に向かいました。
様々な伝統の制約から解放され、近代造形の視点からいけばなを行う「前衛いけばな」としての展開が始まります。
「前衛いけばな」は、封建的とされた家元制度の否定、流派の存在よりも個性的な個人としての作家の活動に重点を置くという所から始まりました。同時に伝統的ないけばなの持っていた自然観、季節観、出生観をも含めて否定するところから新しいいけばなが始まると当時の作家は考えていました。
このことは素材を花のみに限定せず、積極的に異質素材を取り込み、花も無機物として扱うところから造形を試み、いけばなをオブジェとしてとらえ、主題を持たせました。それらは、シュールレアリスムの手法によるオブジェ作品、幻想的作品を生み出しました。この頃活躍した人として、勅使河原蒼風(てしがわらそうふう)、中山文甫、小原豊雲などがあげられます。
「前衛いけばな」は空間芸術として位置付けられ、床の間から室内へ、そして室外、屋外へ場を求めて展開していきました。
一方で、「前衛いけばな」の担い手は家元であり、前衛運動そのものは家元制度と対立し、客観的には矛盾があると指摘を受けてきた。しかし「前衛いけばな」は芸術活動のみで展開され、流派制度とともに、両立しながら展開していきました。
いけばなはこれからも、伝統依存の流派体制と作家の創造的意識のはざまで、振幅作用を繰り返しながら様式的変貌を遂げていくと思われます。
いけばな流派の数は、その消長が激しく実数はつかみにくいです。
1966年「日本いけ花芸術協会」が結成され、毎年花展を開催し、いけばなの社会認識を高めています。1956年には「イケバナ・インターナショナル」が結成され、いけばなのも国際化も相互交流とともに活発になっています。
このように「いけばな」は海外からの評価をまじえて、環境デザインの芸術として広い意味での生活空間意識の上にたった生活芸術としての発展が期待されます。